大学は「工場」ではない 新自由主義的教育の台頭に警鐘
新自由主義的な教育秩序が台頭している。それは「イノベーション」「競争力」「国際的意義」といった言葉に包まれ、静かに忍び寄ってくるが、その表面下では、大学のあるべき姿が空洞化されつつあるのだ。
根底にあるのは、大学の存在意義が、経済界ですぐに戦力となる卒業生を輩出することだとの考え方である。批判的思考、哲学的探求、歴史的意識、倫理的考察といったその他の要素はすべて、二次的なものとなってしまう。教育はもはや投資、商品、そして人材供給のパイプラインとして見なされるようになった。
この論理は、大学ランキングへの執着が高まっていることに最も顕著に表れている。各大学は、自校の順位を卓越性の決定的な指標としているが、ランキングは中立的なものではなく、出版物の数、被引用数、研究収入といった、グローバルな知識経済の指標を重視しているのだ。
そこでは社会を問い直す能力そのものが知識の価値とされる哲学、歴史学、文学、そして社会科学は負担となる。STEM分野(科学・技術・工学・数学)の産業界と連携した研究が優先される一方、人文学部は縮小されたり、ひそかに軽視されたりしている。
こうなると、大学は議論が交わされる場から官僚的な機械へと変貌してしまう。知識が測定可能な形式に無理やり押し込められると、知のあり方そのものが軽視されてしまう。先住民の知識体系、コミュニティベースの学習、そして文脈に根ざした洞察は、標準化されたテンプレートには収まらない。それらは関係性に基づいた経験的なものであり、定量化にそぐわない。それらをわかりやすく単純化してしまうと文脈や政治的背景、意味を剥ぎ取り、それらを変容させてしまう。それにもかかわらず、私たちはこれを「改善」と呼んでいる。
これと並行して、成果基盤型教育(OBE)の制度化が進められている。学習目標の明確化、指導と評価の一致、そして説明責任を重視している点で、OBEは妥当な手法のように思える。しかし、教育は流れ作業ではない。批判的思考や知的好奇心は、標準化された評価基準から生まれるものではない。教育において最も変革をもたらす瞬間とは、往々にして予測も測定もできないものである。
現在のOBEには、こうした余地がほとんどなく、曖昧さよりも明快さを、探求よりも構造を、発見よりも予測可能性を優先する。その結果、技術的には有能だが、知的には制約された卒業生を生み出すリスクがある。
そしておそらく最も危険な動向は、高等教育委員会(CHEd)が提案する一般教養カリキュラムの再構築である。デジタルリテラシーと就職に必要なスキルを統合して現代の課題への対応力を高め、国内外の枠組みとも整合するこの提案は一見進歩的に見える。
しかし、その構成は「専門的コミュニケーション」、「世界的動向と新興技術」、「データとエビデンス」、そして「労働教育」。哲学、文学や倫理といった人間存在について向き合う科目は周縁へとおいやられている。このカリキュラムは労働者育成のために設計されているのだ。
これこそが、新自由主義的教育の真の危険性である。それは批判的思考を即座に廃止するわけではない。その価値を軽視し、資金を削減する。時が経つにつれ、競争力はあるが、知的には空虚な大学が残されることになる。
これは改革に反対する主張ではない。しかし大学の進化は、高等教育の本質の抹消を代償にしてはならない。大学は本来、工場ではないからだ。訓練センターでもない。大学とは、社会が思考する場なのである。
そして、大学が経済のための単なる供給源にされてしまえば、私たちは人文科学や社会科学を失うだけにとどまらず、システムそのものに疑問を投げかける能力をも失ってしまうのだ。(7日・マニラタイムズ、アントニオ・コントレーラス比大教授)






