「政治サーカス」より貧困対策に取り組め 長期的視野に立った抜本的改革を
国民が上院発の最新の政治ドラマに釘付けになっている一方で、重大なニュースが、本来受けるべき注目をはるかに下回る扱いにとどまっている。
世界銀行の最新報告書によると、フィリピンの貧困率は2023年の15.5%から2028年までに12.3%まで低下する見込みだ。一見、朗報に聞こえるかもしれないが、そうではない。我が国が、2020年代末までに貧困率を1桁台に引き下げるという自らが設定した目標を達成できる可能性が低いことを意味しているのだ。
これは単なる統計上の問題ではない。数字の背後には、わずかな給料でやりくりする世帯、子どもが食べられるようにと食事を抜く親、通学費を工面するために食事を抜く学生、あるいは次の緊急事態によって長年の犠牲が水の泡にならないことを願う家族がいるのだ。
公平を期すなら、慎重ながらも楽観視できる理由はある。比の経済は堅調に成長を続け、雇用情勢は改善した。インフレ、特に米価格の上昇は落ち着きを見せている。所得格差も縮小した。決して小さな成果ではない。これらは、地政学的緊張によって不安定な状況にある世界であっても、進歩は可能であることを我々に思い出させてくれる。
しかし、世銀が伝えるメッセージは明確だ。成長だけでは不十分であると。
あまりにも多くの比人が生産性の低い仕事に縛られ、あまりにも多くの子どもたちが必要なスキルを身につけられないまま、教育制度から卒業している。多くの農村地域が、貧弱なインフラ、低い生産性、気候災害に苦しめられている。
多くの人々は、たとえ中産階級に身を置いていても、たった一度の重い病気、壊滅的な台風、失業で、家族は再び貧困へと突き落とされてしまう。
こうした状況を生み出した理由のもっとも簡単な答えは、現政権や過去の政権、議会、地方自治体、あるいは民間企業にも責任を転嫁することだ。汚い政治、公益よりも私利私欲を優先させる姿勢を挙げればよい。
しかし、それだけではなく、貧困削減には数十年にわたる一貫した取り組みが必要であるのに対し、政治は常に選挙サイクルに基づいて動いているからとも言える。
私は議員として、特定の政権の任期を超えて改革を持続させることの困難さを目の当たりにした。時の政権や議員は即座に政治的な成果が得られる事業を追求しがちだ。教育、農業、インフラ、科学、そして制度改革への長期的な投資は、しばしば後回しにされてしまう。今日でも、汚職捜査や弾劾手続など、終わりのない争いに焦点が当てられている。
悲劇なのは、貧困は政治的な見せ物ほどの注目を集めはしないということだ。子どもたちが学年相当の学力を身につけられない教室や、気候変動と闘う農家の姿には、ネット上で話題になるような瞬間も、見出しを飾る対立劇もない。しかし、まさにこれらの問題こそが、この国の未来を決定づけるのである。
一方で心強いニュースもある。世銀は、抜本的な改革を行えば、今後15年間で貧困を大幅に削減できると示唆している。中産階級の拡大は依然として実現可能な目標であり、若年層が多い人口構造上の強みは健在だ。比の戦略的な立地、成長を続けるデジタル経済、回復力のある労働力は、多くの機会をもたらしている。改革実現のためには、学習成果の向上、農業の近代化、社会保護の強化、気候変動への耐性の構築、高付加価値投資の誘致、そして生産性の高い雇用の創出が優先課題となる。
「アンビシオン・ナティン2040」(貧困撲滅を含む比の25年発展計画)について考えるとき、国家の抱負とは政権の任期を超えて受け継がれるものであることを改めて思い知らされる。「堅固で、豊かで、安心できる生活」というビジョンは、選挙スローガンではばなく、次の世代への約束として構想されたものだ。
貧困削減に成功した国々は、カリスマ的な指導者や劇的な政治的出来事によってではなく、長年の規律ある政策立案と制度の継続性によって成し遂げている。問題は、私たちの政治が依然として野心を抱き、それを実現する能力を持っているかどうかである。
ギリシャのことわざに、「老人が、自分たちが決してその木陰に座ることのない木を植えるとき、社会は偉大になる」というものがある。それこそが、私たちの公職者が残す遺産であるべきだ。(9日・マニラタイムズ、オーランド・メルカド元上院議員)








