洋珠観瀾1 映画「YAMAZOE」が映し出すレイテ島の戦時記憶 大月短期大学教授・荒哲
東京をベースに活躍する新進気鋭の映画監督ドニー・オルディアレス氏がいま、「YAMAZOE」という映画の企画を進めている。作品の主人公は、アジア太平洋戦争中にレイテ島に駐留した日本軍将校、山添勇夫(やまぞえ・いさお)中尉である。
今回の企画が興味深いのは、一人の日本軍将校を描くことだけでなく、その人物の記憶が、戦後80年を経たフィリピンの町でなお生き続けているという事実にある。
私は先月、この映画制作のための現地リサーチに携わる機会を得た。リサーチは国際交流基金マニラ事務所(所長、鈴木勉氏)の後援の下、山添中尉が駐留したレイテ島ドラグ町と、同中尉の故郷である京都府与謝野町で関係者への面談調査を中心に、様々な史実を確認しつつ行われた。
▽末裔に語り継がれる「優しい司令官像」
以前より、山添中尉をめぐる戦時記憶が、かつての日本占領地の一つであったドラグ町において、戦後も住民たちの間で引き継がれていることは知られているが、調査をしながら、何故、これほどまでに山添中尉の記憶が鮮明に受け継がれているのか、という問いかけが絶えず自分の脳裏に投げかけられていた。
日本占領下のフィリピン社会では、対抗日ゲリラ掃討を目的とした治安維持対策が厳格に施行されていて、住民たちは非常に過酷な暴力と背中合わせの毎日を送っていた。加えて、自活の原則に基づいた食糧自給のための食糧増産が奨励される一方、下級日本軍兵士による食糧の強奪など日常茶飯事であった。そのため、戦後もフィリピン社会における反日感情は根強く、その感情は70年代または80年代ごろまで残存していたと言える。
そもそも、こうした反日感情が根強かったフィリピンにおいて、山添中尉に関する肯定的記憶がことさら引き継がれているのは何故だろうか。山添中尉(第36独立歩兵守備隊第2中隊長)の駐留期間は、1942年(昭和17年)10月から、翌年の1943年(昭和18年)4月までの半年間のみである。
当時の戦時記憶をとどめている住民たちのほとんどは他界していて、私たちが面談できた人々は、その次の世代、あるいは末裔(まつえい)たちに限られた。住民の多くは、山添中尉の紳士的な振る舞いや、残酷な日本兵とは違った、ある意味「優しい」司令官、といったイメージを今でも抱いている。私としては、こうした記憶が単に、その時期に限定された偶然の産物として残されているとはとても思えなかった。
▽心の奥底にある「未完の革命」
フィリピンは、20世紀の転換期、対スペイン革命と比米戦争において、甚大な犠牲を払った国としても知られている。ドラグ町が位置するレイテ島東部は、北隣にある大きな島、サマール島と同様、対スペイン革命がとん挫した後、比米戦争において、数多くのフィリピン革命家たちが対米ゲリラ戦を展開した地域でもある。
アメリカ植民地政策が定着しつつあった20世紀前半、ルソン島で展開されたサクダル運動=1930年代に盛んになった反米・反植民地体制運動=と同じような抗米運動がサマール島やレイテ島でも見受けられた。表面上は穏やかなアメリカ植民地政策が展開されている中、反米意識は、意識的にせよ、無意識的にせよ、ドラグ町を中心とした住民たち(とりわけ貧困層を中心とした小作人農民)の心の奥底に潜んでいたことは否定できない。彼らの多くは、いわゆる「未完の革命」の潜在意識を抱えながら、1942年に始まる日本軍政を受け入れたということができる。
ドラグ町に駐留した日本軍将校、山添中尉の軍政には、その駐留期間がわずか半年とはいえ、地元町長、エルーテリオ・カインの協力の下、様々な面で住民たちからの高い評価が与えられた。当時、ドラグ町は、抗日ゲリラの支配下の他地域とは異なり、完全に日本軍の占領下にあった。そして、町は「リトル東京」との異名を持つまでになった。山添中尉の軍政においては、住民たちを抗日ゲリラの脅威から防御する防衛体制がとられ、食糧増産政策も功を奏したという。
ただ、1943年4月に発生したゲリラ掃討作戦の最中の山添中尉の戦死後は、状況は一変し、米軍のフィリピン奪還作戦が迫る中、住民たちは過酷な軍政に苦しむことになる。
しかしながら、「未完の革命」的精神を背に、治安維持を目的とした準軍事組織、「Jutai(縦隊)」がドラグ町をはじめ、周辺のブラウエン町、ダガミ町などで組織化された。彼らは献身的に日本軍に協力したのである。
1944年10月の米軍上陸後、Jutaiをはじめとする多くの対日協力者は、米軍の対敵諜報部隊に捕らえられ、中にはゲリラによって殺害された者も数多くいた。ドラグ町民の山添中尉をはじめとする軍関係者への協力は、単に山添中尉の「優しさ」に惹かれての行為ではなかったと思う。
ここには、「未完の革命」を背景とするくすぶり続けていた住民たちの反米意識が根底にあったのではなかろうか。あるいは、米軍がレイテ島に上陸する際の米軍艦隊からのし烈な艦砲射撃による数多くのドラグ住民の犠牲により、一時は埋もれていた住民たちの反米感情が蘇ったのかもしれない。対スペイン革命と比米戦争の記憶は、現在のフィリピン社会ではほぼ消滅しつつあるが、山添中尉の記憶は、こうした過去の「未完の革命」感情が反映されたものとして住民間で無意識の内に受け継がれてきていると考える。
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あら・さとし 文部省アジア諸国等派遣留学生としてフィリピン大へ留学。同大で博士号取得(歴史学)。デラサール大学マニラ校教養部歴史学科准教授を経て、現在、山梨県にある大月市立大月短期大学教授。また、京都大学東南アジア地域研究研究所連携教授も務める。代表書に「日本占領下のレイテ島」(東京大学出版会、2021年)。
※不定期連載「洋珠観瀾」の洋珠(ようじゅ)はフィリピンの美称である「東洋の真珠(Pearl of the Orient)」を漢字2文字に凝縮した創作です。また、観瀾(かんらん)は『孟子』の「水を観るに術あり、必ずその瀾(なみ)を観る」から引用し、激しく動く波(=時事の表層)を観察することで、その源流にある本質を見極めることを表しています。








