「近代化」と「国際化」の保証にやっきになる大学 知的自由と批判精神を守れるか
かつて、大学は危険な思想を生み出す存在として恐れられていた。今日、多くの大学は、認証審査に不合格になるかもしれないという恐怖に怯えている。
各大学が、自校のプログラムが「ASEAN大学ネットワーク・品質保証(AUN-QA)」に「合格」したと誇らしげに発表し、祝賀式典やソーシャルメディアへの投稿などに明け暮れている。さらに、次の課題として「機関評価」が浮上している。
機関評価とは、学位プログラムの質が優れているかだけでなく、大学全体を組織的な仕組みとして評価するものである。ガバナンス体制、戦略策定プロセス、ステークホルダー参画の仕組み、モニタリングシステム、そして継続的改善の枠組みなどのすべてが、審査対象となる。大学は監査可能な組織へと変貌している。
驚くべきことは、国立大学やカレッジが、この一連のプロセスを「近代化」「国際競争力」「ASEAN統合」に必要だと疑うことなく受け入れている点だ。品質保証や説明責任、基準そのものが悪なのではない。問題は、品質保証の論理が管理主義的なイデオロギーへと変質したときに生じるのである。
このイデオロギーの下では、大学は批判的探究に専心する知的共同体という本質を失い、測定可能な成果や業績指標からなるシステムへと変貌してしまう。
学者たちが単に「良い教育を行う」ことだけでなく、「良い教育を行っている証拠」を絶えず提示するよう求められるようになったとき、このシステムがいかに不条理なものになったかが明らかになる。もはや、学生を指導し、思考を刺激し、既成概念に挑み、社会的に意義ある学術研究を生み出すだけでは不十分なのである。
皮肉なことに、歴史上最も優れた大学の多くは、今日の官僚的な品質保証への執着の下では、おそらくひどい評価を受けることになるだろう。ソクラテスに成果主義の評価基準を適用する姿を想像してみてほしい。カール・マルクスにステークホルダー・エンゲージメント・マトリックスを作成するよう求める姿を想像してみてほしい。『地に呪われたる者』を執筆する前に、フランツ・ファノン(アルジェリア独立運動で指導的役割を果たした思想家)に測定可能な主要業績評価指標(KPI)の提出を要求する姿を想像してみてほしい。
人類文明を変革した知的伝統は、管理的なコンプライアンス体制から生まれたのではなく、リスクや曖昧さ、異論、実験、そして知的混乱を許容する環境から生まれたのである。
プログラム単位の認定とは異なり、大学全体の評価は大学ガバナンスの構造そのものに深く入り込むものである。それは自発性よりも監査可能性や首尾一貫した文書体系を評価する。つまり、官僚組織のように振る舞う大学を優遇する仕組みなのである。
国立や公立の大学やカレッジは、すでに高度に官僚化された政府の環境下で運営されているため、特に危険だ。教職員はすでに評価やランキングのプレッシャーにさらされ、機関評価は、彼らにさらなる負担を強いる。
品質保証の枠組みは決して中立的なものではない。それらは、大学がどのような組織であるべきかという前提を体現しており、効率性や標準化、競争力を美徳とする新自由主義的経営主義に深く影響を受けている。
グローバル・サウスの大学が、こうした枠組みを無批判に受け入れてしまうのは危険である。比のような国々において、大学は単なる「知識の工場」ではない。大学は、植民地時代の歴史、脆弱な国家機能、民主主義の不安定さ、そして議論の分かれる開発を論じる、深刻な不平等に満ちた社会の中に根ざした政治的機関でもある。
大学は、合意形成と同様に異議申し立ても生み出すべきであり、システムの最適化だけでなく、権力に挑むべき存在である。管理上の順応ではなく、知的自由を育むべき存在なのだ。
もちろん、品質保証を完全に放棄すべきだというわけではない。大学の評価システムは、知的生活を支配するのではなく、それに奉仕すべきである。そうでなければ、最終的には、世界的に認定されながらも知的には「飼い慣らされた」大学を生み出してしまうかもしれない。そして、それは高等教育の究極の失敗となるだろう。(6月16日・マニラタイムズ、アントニオ・コントレラス比大教授)








